5.0
言葉にならない
今まで読んだ全ての漫画の中で、最も強く感情を揺さぶられた作品のひとつになった。
だから、たくさん字数を費やしてレビューを書きたいと思った。
誰かにこの漫画の素晴らしさを喋りまくりたいと思った。
そして、気づいた。
「この漫画を読んで自分はこう思った」という感想が、あまりに言葉にならないことに。
それは、私の言葉が足りないせいだ。
ただ、この漫画自体、かなり慎重に「言葉」を拒絶している。
登場人物の内面を語るようなモノローグや「心の声」の描写は、ない。
この漫画でそれを語るのは「文字」ではない。
「画」だけだ。
ほとんどその一本で、作者は勝負している。
漫画は、雑に言えば、絵と文字だ。
だから、文字だけに頼らない描写というのは、漫画が漫画であるために、どうしても避けては通れない勝負どころなのだ、本当は。
でも、ここまで徹底的とは。
その、強く、潔く、誇り高く、圧倒的に雄弁な表現力の見事さに、私はほとんど畏怖の念すら覚えた。
そして、そういう表現の漫画だからこそ、逆説的に、「言葉」が輝く。
何でもないような小さな言葉が、たった十七音の俳句が、あり得ないようなみずみずしい命を持っている。
この漫画は言葉を忌避しながら、同時に、言葉をとても大切にしている。
この漫画は、読む人に、きっと何かを残すだろう。
そしてその何かは、読む人によって、あまりに異なるものになると思う。
その多様さはきっと、「感想は人それぞれ」という一般論のレベルをはるかに超えているだろう。
私にとっても、その「何か」は、あって。
最終話を読んで、私は、自分の中に残ったものを懸命に言葉にしようとした。
そして、諦めた。
鉛のようにも宝石のようにも見えたその何かを的確に言い表す才能は、私にはない。
そして、思った。
小説も映画も漫画も、そもそもは、こんなふうに「言葉にならない」何かに形を与えるために、描かれるのではないか、と。
最後のページをめくったときの寂しさを、私はきっと忘れられない。
嗚呼、もう会えない、と私は思った。
登場人物たちが、ではない。
私が、彼らにだ。
彼らの未来に、私はいられない。
漫画を読んで、そんなことを思ったのは初めてだった。
さよなら、と声には出さずに私は言った。
さよなら、私のロッタレイン。
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